Vol.07 生き人形たちの憂鬱

生き人形たちの憂鬱
(三島由紀夫 著 『女神』 )

三島由紀夫の名を初めて知ったのは多分10歳くらいの時であったと思う。
3歳年上の兄からの情報は「自衛隊の決起を呼びかけた挙句に割腹自殺した人」。
何だ、アブナイおじさんかい。作家であったと知ったのはしばらく後のことで、作品を読んだのは更に随分後のことであった。「アブナイおじさん」のイメージのせいか読み始めは多くの有名作家に比べてはっきりと遅かった。

今でもそれほど多くの三島作品を読んでいるわけではないが、今まで読んだ作品の印象を一言でまとめることはできる。「読後感が悪いくせに一気に読まされてしまう作品」。見栄っ張りの私は「これくらいは読んでおかなきゃ恥ずかしい」という動機のもと、無理矢理読んだ文学作品も数多い。おかげでふうふう言いながら読んで後に何にも残っていない、というような本もたくさんあるのだが、三島の作品に関して言えばそれはない。好きか、と聞かれれば多分、No。それでも感想を問われれば多分熱っぽく語ってしまう。この「女神」もそんな不思議な作品のひとつである。

周伍は女性の美しさというものに偏執的なこだわりを持つ男であった。夫人の依子は実に類まれなる美女であったが、それは常に周伍が彼女を美女に仕立てようと努力を重ねた成果であった。しかし依子はその美しさと共に「女は美しくなければ一文の価値もない」という哲学をも吹き込まれた。そして終戦の年。依子はパリであつらえた衣装を空襲から守るため、顔にひどい火傷を負ってしまう。

依子の絶望は大きかったが、更に苦しんだのは周伍であった。しかし数年後、周伍はふと13歳の娘、朝子の中にごく若い頃の依子の面影を見出す。それまで決して愛情をかけて育ててはこなかった娘が、周伍に新たな情熱を与えた瞬間であった・・・。

作中の主要人物は誰をとっても異様な人格的歪みを持っている。美しい女性を仕立て上げることに偏執的な情熱を傾ける周伍。自分に美しさこそが女の価値、と吹き込んだ夫を恨み続ける妻、依子。朝子に対してストーカー的な執着を見せながらも裏切りを働く画家。一見好青年でありながらあさましい裏の顔を持つ朝子の婚約者。そして唯一、心身共に美しくすくすくと成長したかに見えた朝子でさえも最後の最後で何やら得体のしれない存在へと「化身」してしまうのである。

「化身」ということで言えば物語の途中で火傷を負った依子の化けっぷりも凄まじい。この母娘はいわば周伍によって作られた美しい生き人形であったが、周伍が「魂を入れ損ない」、更には炎によって壊された人形、依子は夫に対して激しく復讐の牙を剥く。一方内面から丹念に周伍の理想像に沿って作り上げられた人形、朝子はやがて人としての柔らかい心を失ってゆくことになる。自らの不幸を嘆き、恨みを募らせて醜い言動を重ねてゆく母と、嘆く心を喪った娘。本来どちらの女性がより嘆くべきなのかは誰も一概には言えないであろう。

ところで話の本筋とはあまり関係ないが、面白いと感じるのが周伍独特の「美女製造法」である。それには不可欠なこととして「信仰と崇拝」ということが挙げられている。美は崇拝によって生み出される、というのだが、それならば火傷を負った依子でも、その崇拝によって美人たりえたのであろうか。

そうかもしれない。もともと容貌の美醜などというものは周囲の人間がそれをどう評価するかで決まってしまう。時代や文化によって美しいとされる容貌が異なることを思えば、もし多くの人が火傷の痕を「美しい」という感嘆の思いを込めて見つめたならば依子はずっと「女神」でいられたはずである。

要するに容貌の美醜とは周囲から与えられる感覚的な評価にすぎない。しかし多くの人は現実に自らの容貌が周囲に与える印象に大なり小なり左右されつつ生きている。何と曖昧なものが人の人生に影響を与えていることだろう。

「女神」の作中では他者の信仰と崇拝が女性の自信と、そこからくる美を招く、とされている。また一般に「人間生き方は顔に出る」とも言われる。要するにどちらも内面が外見に影響する、ということで多分ある程度の真実を含んだ言葉ではあるのだろう。しかし私のように医学的な異常で外見にちがいを抱えた人間は「それどころじゃない」という部分があったりするのもまたミもフタもない真実だと思う。

美醜だの生き方による印象だのの問題以前に人の目についてしまう問題。火傷の依子を美女にできなかった三島もこの問題に関しては多分ただの人、であったのではないだろうか。

(おわり)

→Vol.08 恋におぼれる当事者たち

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