Vol.04 物語の中に見た現実

物語の中に見た現実
(手塚治虫 著 『きりひと讃歌』 )

先日外川氏とメールをやりとりしている時のこと。冗談半分に最後をこうくくった。

「きりひと讃歌、私も最近読みましたよ。何なら私も書きましょうか?」

かる~く書いてみた言葉にはきっちりとした反応が返ってきた。
「おもしろい!」
ま、言われてみれば確かにね。見た目に関わる本について、当事者と非当事者、両方が同じメルマガで書評を書いてみるということは少ないかもしれない。
瓢箪から駒。当事者から見た「きりひと讃歌」、書いてみることにした。

さて、このお話、短く言ってしまえば病気で犬のような容貌となった医師の苦悩と復讐、そして再生を描く物語である。正直、設定が荒唐無稽すぎてモンモウ病にかかった主人公を同じ「当事者」ととらえられないまま読み進めた。しかし荒唐無稽であるからこそ、突如としてぶつかったリアルな台詞には少なからずぎょっとさせられることになった。

物語の途中、医師であるきりひとがある村の長老を救う場面がある。しかし犬のような容貌が住民に不信感を与え、結局彼の医療行為は台無しにされてしまう。
「この犬相があるかぎり私には永久に今日のような失敗がつきまとっている……人間の命をあずかるこの重大な仕事がうわっつらの人相だけで評価されてしまう」

きりひとの嘆きは見た目に関わる症状を持つ者共通の嘆きにそのまま繋がる。
全身にアザを持つ私は普通に歩いているだけで見ず知らずの人間から「汚い、気持ち悪い」と罵声を浴びせられることがある。私はきりひとのような医師ではなく、自慢できるほどの何ものも持ち合わせない人間である。しかし、私がたとえば医師であったとしても、浴びせられる罵声から身をかわすことは一生できない。
どれだけの知力や人格を持とうが、関係ない。まさに「うわっつらの人相だけで評価されてしまう」ためである。

また物語の終盤できりひとに対して下垂体疾患を持つ人々が「どうやったら先生のように堂々と生きられるか」と口々に尋ねるシーンがある。以前ユニークフェイスのイベントで出会ったアザを持つ少女の父親の言葉が脳裏に蘇った。

「どうすればいいんですか?」

簡単にこれで解決できる、という回答などあるはずもない。だが両親は何があっても自分の味方だ、と信じることができればそれはお嬢さんにとって確かな励みにはなると思う。
私の言葉を聞きながら少女の母親は泣いていた。そう、頭では最初から分かっているのだ。私ごときが口にする程度のことは。それでもすがれる答えが欲しい。
病を持つ人々やその家族が抱える切ない心情を、天才手塚治虫は物語の最後に近い短いシーンで見事に描ききっている。

虚構の中に紛れ込んだ現実をそれと見分け、問題を掘り下げて考えた読者はそれほど多くはないだろう。しかし娯楽作品に盛り込まれたことで多くの人がその現実を目にしたことは確かである。作品のグロテスクさには辟易するし、容貌の病変に関する扱い方には気分の悪さがはっきり残る。それでも一般的とされない問題を広く世の中に問いかける方法としてはこれもありかな、とは思う。できることならその問いかけに気付く人がこれから先の社会で、少しずつでも増えてゆくことを祈りたい。

(おわり)

→Vol.05 みかけは人を支配できるか

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