Vol.08 ビートたけし論 -後編-

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ビートたけし論( 『顔面麻痺』 に関して) -後編-

顔面麻痺に関しては、看護のために病室につめている弟子や見舞い客に、以下
のように語っている。

「だからさ、仕事でもなんでも、あらゆるところで枠ってのが、バームクーヘン
のようにあるんだ。身障者であれば、その枠がたまたま体の障害の枠だってこと
で、それだけのことなんだよね。(中略)結局、与えられた枠の中で卑屈に安定
してしまうのは、実につまらないものであって、まして枠を他の枠と比べてみて
もしょうがない。要するに枠はルールだと思えばいい。スポーツやる時のルール
と同じ。いいルール悪いルールっていう差はない。選べない。『サッカーやる時
は手を使えない』というのと同じでね、『身障者は歩けない、車椅子だ』ってい
うルールの中で、どれだけ面白いゲームをするかってだけじゃないの。
例えば、ヘレン・ケラーだって、あれだけ奮闘したんだ。目は見えない耳は聞
こえない、でも残された指の感覚で、あの人の宇宙が出来たわけでしょ。だから、
その枠の中で作るって努力をしない限りは、『この枠は駄目だ駄目だ』っていう
不平で終わってしまうね。(中略)社会のルールじゃなくて、病気のように人間
の自然的な条件に関係することは、とくにそうだよ。もちろん、おれの顔面麻痺
だって」

長々と引用したが、当事者でない私にはこのような発言はできないし、たけし
は超有名人であり、地位も名誉も金も、事故前にすでに得ている人間である。芸
能界に復帰できる算段も、この時すでに立っている。それに、たけし本人はヘレ
ン・ケラーのような重度の障害者になったわけでもないから、反感を抱く方もい
るかもしれない。
しかし、たけしの発言は、あくまで「個人の意識のあり方」を説いたもので、
MFMSの活動のような、「社会の不平等なルール」や「差別の現実」を変えて
いくことを否定したり、それすらも<枠>として受け入れろ、と言っているわけ
ではない。たけしが言いたいのは「グチを言ってたって、何にも始まんないぜ」
ということだろう。
私が思うには、それが変えられる<枠>であれば、変えてしまえばよいし、変
えるための努力をすればよい(それが大変なことなのは重々承知していますが)。
でも、例えばの話、偏見や差別がなくなり、社会体制が是正されたとしても、ヘ
レン・ケラーの目は見えず、耳は聞こえないとすれば、やはりその<変えられな
い枠>を受け入れなければ、たけしが言っているように、彼女の宇宙は広がらな
かっただろう。
キツイことだとは思いますけど。だって、<変えられない枠>が<変えられな
い>のは、相手がいるもの(原因のあるもの)じゃないからで、湧き上がってく
る「どこにもっていったらいいのかわからない怒り」っていうものを、自分の中
で消化しなきゃならないわけですから。
病気であれば、いくら病気のシステム(ウイルスとか感染ルートとか)が解明
されても、「その人」が選ばれてしまった理由なんてのは何もないわけで。遺伝
だとしても、「その家系」にそういった遺伝子がある理由なんてのはないでしょ
う。

「ホントにタフだな、このオッサン」というのが、この本を読んでの感想です
ね。私だったら、もし事故を起こして顔が潰れたら、もう人生を悲観して、グチ
を言ってるハズでさ。そんな自分の姿がすぐに想像できるんですね。たけしのよ
うな自損事故だとしても、人に当たったり、わめき散らしたり、絶対やってる。
上に書いたようなことが、いくら理屈としてわかってても、感情は別ですからね。
でも、少なくてもこの本の中じゃ、たけしはそういうことを全然してない。ベッ
トの上で復帰後の仕事の構想を練り、事故のことすら前向きにとらえようとする。

ちなみに、この事故の後に、たけしは『キッズ・リターン』を撮るんですね。
ネットの辞典「ウィキペディア」によれば、あのラストシーンの主人公二人のセ
リフは、事故の後遺症と闘っている自分自身に向けた言葉でもあったようです。
ついでですが、『キッズ・リターン』は、近年の青春映画としては久々の傑作で
した。

(了)

→Vol.09 「恋愛」と「コンプレックス」Ⅱ

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